通説編第1巻 第2編 先史時代


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第3章 函館の縄文文化
第5節 縄文文化の動揺

新しい時代への胎動

亀ヶ岡文化

函館の亀ヶ岡文化

集落と墳墓

亀ヶ岡式土器

石刀と紡錘車

土偶と衣服

亀ヶ岡文化   P253−P255

 縄文晩期を代表する文化に「亀ヶ岡文化」がある。これは青森県西津軽郡亀ヶ岡遺跡を標式としたもので、北海道では函館を中心とした西南部が青森県と同じような変遷をたどり、共通の文化圏にあったが、後半に入ってからその分布はほぼ全通的な広がりを示すようになる。本州でも青森県・岩手県を中心として、更に新潟・富山の北陸や、東海・近畿地方の一部に影響を与えた。東日本で亀ヶ岡文化が栄えたころに、九州では、中国・朝鮮の大陸文化が直接関連した。九州の縄文晩期には米、紡錘車、織布と、打製の農耕石器が共伴して稲作農耕文化の段階に至った。弥生前期には南朝鮮の支石墓の文化が縄文晩期の文化と接触して鉄や磨製石剣など青銅利器の模造品が用いられる。土器製作技術も進化するが、南朝鮮の支石墓文化は初期の金属期文化で、それが弥生式土器の製作技術にも影響を与えた。
 縄文時代の土器で江戸時代から有名なのは亀ヶ岡の土器である。この土器は元和8(1622)年に弘前藩主津軽信牧が西津軽郡亀ヶ岡に城を築く計画を立てて土木工事を始めた時、ここから土偶や瓶(かめ)・壷などが多量に出土して人々を驚かせた。このことは当時の文書『永禄日記』元和9年の条に「ここより奇代の瀬戸物を掘出し 云々」と記され、好事家によって出土品が集められた。ここの古地名が「瓶ヶ岡」であることから、元和以前にも土器が出土したであろう。この土器が「奇代の瀬戸物」とあるように、珍らしかったので歴代の藩主も領内巡察の際にここを訪れて発掘品を鑑賞したが、土器類や土偶は全国的に有名となり、文人や骨とう愛好家の手に渡り、中には大阪の堺から外国に流れたものもある。明治になって函館にも発掘品が運び込まれている。この時期の土器が函館周辺から発見されたのは江戸時代末期であるが、遺跡の発掘が行われるのは昭和に入ってからである。函館の亀尾にある女名沢(めなざわ)の遺跡あるいは上磯の添山や久根別(くねべつ)の遺跡などがほぼ同じころに発掘され、北海道における代表的な亀ヶ岡式の遺跡として有名になった。
 昭和11年に「ミネルヴァ論争」といわれる学界での論争があった。これは雑誌『ミネルヴァ』が開いた座談会−日本石器時代文化の源流と下限を語る−で、これは考古学者の山内清男と歴史学者の喜田貞吉との間で行われた縄文時代終末の時期に関する論争である。考古学がまだ歴史学上において定着していなかったころであり、これは歴史学と考古学との論争ともいえるもので、その反響は後にも影響を及ぼした。亀ヶ岡式の土器が三戸郡是川(これかわ)などでも発掘され、植物性遺物などこれまでに知られていなかった新しい資料が学界に提供された。喜田は、岩手県大原町の亀ヶ岡式遺跡で、土器に宋銭が収蔵されて発見されたことから、縄文時代終末の実年代を、奥羽地方においては平安朝末期ないし鎌倉時代まで下限が下がり、おそらく藤原3代の平泉が栄えたころまでも石器時代の状態が継続したと解釈した。更に海峡を越えた北海道では徳川時代の中ごろまでも石器使用の蝦夷が昔ながらの生活をしていたと述べている。この考えは、当時歴史学者にかなり支持されたが、山内は、東北地方から関東地方を舞台に縄文土器の編年研究に取り組み、全国的に編年を確立しつつあった。この層位学、型式学による編年は、現在考古学の基本となっている。縄文時代終末の形式となった亀ヶ岡式は、大正14年に岩手県大船渡市赤崎町の大洞(おおぼら)貝塚を発掘した資料を基にして山内が細分し、「亀ヶ岡式の前半は中部地方から近畿地方にも及び、土器形式による地域的な時間差はそれほど大きくない。」と主張している。すなわち縄文時代の終末が東北・北海道においても実年代が喜田の言うように平安時代までは下らないということなのである。
 亀ヶ岡式の土器は、山内の大洞の資料細分によって、縄文文化の終末を考える上で重要な形式となる。また、亀ヶ岡文化が、土器以外に高度な技術を有する文化であることが明らかになったのは、是川の中居遺跡の発掘によってである。この遺跡は泥炭層にあり、住居などが川の氾濫(はんらん)によって沢や窪(くぼ)地に埋没し、腐食を受けやすい木製品や建材が地下水の作用によってそのままの状態で残っていたものである。住居等に用いられた木材にクリ、スギ、アララギ、ヒノキ、トチ、ニレ、クルミ、モミがあり、縄や綱の代りにフジ、ブドウ、アケビ、ニレ、サクラ、カバのつるや樹皮が用いられていた。生活用具としては狩猟用の弓がそのままの状態で出土している。中には漆塗りのもの、樺皮や撚糸を巻いたもの、白木のままのものもある。注目を浴びたのは土器のほかに木製の容器があったことで、精巧な朱漆塗りの木製の高坏(つき)、木製椀(わん)が出土した。高坏は広葉樹材をくり抜いて作ったもので、石器で加工した製品とは言えない出来映えのものであった。また、籃胎漆器と言って籠(かご)を芯にして漆で固めた容器もあり、竹やブドウ、フジ、アケビで作った籠や、各種の敷物類もある。祭祀用に作った朱漆塗の飾太刀は、木工技術の粋とも言える。何に使用したかは分らないが、基部に彫刻を施して薄く先のとがった箆状木製品があり、木製装身具には漆塗りの櫛、耳輪、腕輪なども出土している。
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