通説編第1巻 第2編 先史時代


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第3章 函館の縄文文化
第4節 函館のストーン・サークル文化

巨石文化

渡島半島のストーン・サークル

函館のストーン・サークル

住居

縄文社会の革新

縄文後期の土器

人物と衣装

装身具

土製装身具

渡島半島のストーン・サークル   P241−P242


臼尻遺跡のストーン・サークル
 渡島半島でストーン・サークルが発見されたのは昭和45年である。この年は偶然にも2か所で、春5月には茅部郡南茅部町の臼尻小学校改築工事現場で、秋9月には函館市日吉遺跡の発掘調査でそれぞれ発見された。日本のストーン・サークルについて、墓であるのか祭祀場なのか、その時期はいつごろなのか、また住居址や集落とはどのような関係にあるのかが課題となっていた時期である。函館の日吉遺跡との比較上から臼尻遺跡の概要を述べると、この遺跡のある南茅部町は渡島半島南東部にあって噴火湾や太平洋に面し、臼尻小学校は海岸から400メートルほど離れた標高44メートルの高さにあり、見晴しのよい段丘上で南東に緩やかに傾斜した地形である。配石が発見されたのは旧校舎のすぐ裏側で、段丘を削り取って整地作業をしていた時で、ほぼ半分近くが破壊されていたが、石を敷き詰めた長方形の穴が現われていた。地層は上層に駒ヶ岳火山灰などが堆積して60センチメートルほど下に葺(ふき)石と言って屋根瓦(がわら)などを葺いたように円い偏平な石が一面にあり、更にその下に60センチメートルの深さで長方形の穴が掘られていた。長軸は東北東の方向を指している。これは墓壙であり、内部は壁面に偏平な石を張り付けて現代のタイル張りを思わせる。底床は周囲を約20センチメートルほど溝のように残して壁面の石と同じような偏平な石を敷き詰めている。平らになるように、石と石の間に粘土を固く詰めている。広さは縦が1.5メートル、横が1メートルである。人骨はすでに残っていなかったが、敷石の南西部に朱と木炭があり、副葬品の縄文土器が出土した。この墓壙を発見した時、先のとがった大きな石が中央に埋っていたという。この墓壙の構造は忍路の地鎮山ストーン・サークルと非常によく似ている。地鎮山の場合は墓壙の周辺に環状の立石があり、臼尻にも火山灰などで埋っているのではないかと調べたが、土地の人の話によるとかつて旧絞舎を新築する時にこの辺から大きな石が出て、昔の墓があったのでないかと言われていたというが、現在は残っていなかった。
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