通説編第1巻 第2編 先史時代


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第3章 函館の縄文文化
第4節 函館のストーン・サークル文化

巨石文化

渡島半島のストーン・サークル

函館のストーン・サークル

住居

縄文社会の革新

縄文後期の土器

人物と衣装

装身具

土製装身具

巨石文化   P238−P241

 ヨーロッパなどで新石器時代になると巨石文化と呼ばれる文化が現われる。丘陵や広大な平地に巨大な石が立てられ、あるものは列をなし、あるものは環状に並べられている。これを巨石記念物とも呼ぶが、巨石記念物には種類があって玄室を巨石で構築した机形のドルメン、巨大な立石のメンヒル、環状に立石が並ぶストーン・サークル、直線状に何列も並ぶアリニュマンなどがある。しかし、これらの設立意図については定説がない。日本にはストーン・サークルとドルメンがある。北海道と秋田県にあるストーン・サークルは縄文時代のもので、他の地方では発見されていない。ドルメンは初期金属文化の時代になって朝鮮半島から北九州に存在するが、北九州では地上に大きな石がすえられ、その下に数個の石が支石となる碁盤形のものでドルメンとは呼ばず支石墓と呼ばれている。
 日本で最初に発表されたのは北海道のストーン・サークルで、明治19年に渡瀬荘三郎が後志の環滞石籬(り)について東京人類学会報告で発表した。これは忍路郡忍路村の三笠山にあるストーン・サークルで、次いで明治27年には空知郡音江村のストーン・サークルが発見された。ここではオキリカップの稲見山に15、6基があると言われていた。その後余市、狩太、岩内、旭川、函館、南茅部と各地で発見されるようになった。北海道各地の小高い山や丘陵にあるストーン・サークルはヨーロッパなどのように大規模なものはないが、特殊な立石遺跡についていろいろな考え方をした。最初に有名になった忍路のストーン・サークルについて、アイヌの人たちはチャシコツと呼んでいたが、付近の村の人はこの立石に鮭を供えて祭っていたので拝神場遺跡と考えていた。イギリスのネール・ゴードン・マンローは、この遺跡を明治36年と翌年に調査して石器時代人が夜間に天体観測をした場所であると考えた。この考えはイギリスのストーン・ヘンジにヒントを得たもので、ストーン・ヘンジはウイルトシャーにある大規模な環状列石である。中央に祭壇石があってそれを囲む環状列石は陸橋のように列石の上にも横石が積み重ねられていて東北の方向にヒール・ストーンと呼ばれる石がある。これは環状列石を囲む外の堤(つつみ)と溝(みぞ)から更に離れた所にある。堤と溝のある外径が90メートルもある。この遺跡には古くから語り伝えがあって、夏至になると太陽がヒール・ストーンから中央の祭壇を照らして昇るので、その前日は各地から人が集まって夜を明かして日の出を待つ太陽崇拝の記念物とされているので、マンローも忍路のストーン・サークルで日の出や夜空の星などを観察して天体観測の場所と考えたのであろう。鳥井龍蔵は中国の北部やシベリアのエニセイ川上流などのストーン・サークル群との関連でツングース族の所産と考えた。北海道のストーン・サークルが日本海岸の忍路、余市、狩太などに集中していることと、手宮の古代文学と呼ばれた原始記号がシベリアにあることを挙げて、ツソグース族が大陸から渡って北海道に来たのではないかと言うのである。
 ストーン・サークルのなぞに本格的に取組んだのは東京大学の駒井和愛で、大陸文化の墳墓などを調査した駒井は、北海道のストーン・サークルもまた墳墓であろうと想定し、昭和22年から10数年間にわたって発掘調査し、墓であることを明らかにした。それによると北海道のストーン・サークルを次のように分類している。すなわち(1)ストーン・サークル(忍路・三笠山、地鎮山)、(2)環状列石墓(余市・西崎山、狩太・北栄など)、(3)立石構造(余市西崎山西及び南など)である。墓であることが証明された環状列石墓は、小さなものであり、直径1メートル内外の範囲に石を巡らし、その内側に積石があるもので、積石の下に墓壙があり、副葬品が出土している。音江や北栄では人骨は残っていないが、ひすい玉、朱漆(うるし)短弓、黒曜石製石鏃、チャート製石器などが副葬されていた。駒井が北海道のストーン・サークルに取組んでいたころ、秋田県十和田町大湯中通のストーン・サークルが発掘された。昭和6年耕地整理の際所在が確認されていた規模の大きなもので、約90メートル離れて2か所あり、それぞれ野中堂、万座遺跡と呼んでいるが、北海道のものと異なって二重になった環状の幅広い配石があり、野中堂は外側の環状配石の径が42メートル、内側の径12メートル、幅広い配石に数十個の組石遺構がある。環状配石の外帯と内帯の幅は4メートルである。万座は環状配石の外帯の径が46メートルで幅が8メートルあり、内帯は径15メートル、幅4メートルである。この外帯と内帯の間にある組石遺構は、日時計型のものと炉型のものがある。日時計型は中央に大きな立石があって周囲を細長い石などで放射線状に配石し、更に円形に石囲いしている。太陽が昇ると立石の影が時を告げるように放射線状の配石の上にできる。

大湯遺跡のストーン・サークル
 大湯遺跡は、昭和26年から翌年にかけて文化財保護委員会(現文化庁文化財保護部)が調査して報告書『大湯町環状列石』を刊行した。このころ、ストーン・サークル論争が起った。北海道で発掘調査した駒井は墓説を主張し、国学院大学の大場磐雄は大湯の例を挙げて祭祀場説を主張した。大湯の野中堂と万座の二重になっている環状配石は、北海道では発見されていない。しかし、組石遺構の下に小判形の穴があり長径1メートル前後、深さ70センチメートルもあって、これらが墓壙であったのではないかとも考えられたが、この環状配石は何を意味するのであろうか。作られた時期についても明らかでなかった。ただ、遺跡の周辺から縄文時代後期の土器が出土している。秋田県では大湯に次いで鹿角郡小坂町で駒井の分類による環状列石墓が発見された。小坂町は海岸から米代川をさかのぼって上流70キロメートルのところにある。北海道のストーン・サークルの南限は、このころ虻田郡狩太町(ニセコ町)であったが、南茅部町臼尻遺跡と函館の日吉遺跡で新たにストーン・サークルが発見された。
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