通説編第1巻 第2編 先史時代


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第1章 研究史の展望
第2節 ジョン・ミルンらの報告

外国人研究者と函館/シーボルト父子/ジョン・ミルン

エドワード・S・モース/トーマス・W・ブラキストン/その他の外国人研究家

外国人研究者と函館   P144

 安政2(1855)年に開港した函館は、外国人によっていちはやく近代化の影響を受けたが、学問的にも宗教的にも西洋文化を受容した開拓地北海道において、函館は外国人が最も多く足跡を残した地域といえるであろう。先史学、人類学、民族学の新しい分野についても、外国人によって大いに啓発されるところがあった。
 北海道にはアイヌの人たちの長い歴史があり、明治初年には函館にもその人たちが住んでいたが、札幌、小樽には幾つかの部落があってその風俗や習慣は旅ゆく人々の目をひいた。

シーボルト父子   P144

 幕末に来日したドイツ人の医師フイリップ・フォン・シーボルトは、英文誌『日本』の中で、日本の先住民をアイヌと述べており、彼の次男で日本駐在のオーストリア公使館秘書官であったヘンリー・フォン・シーボルトもまた明治11年の夏、日高の平取などアイヌ部落を調査して、翌年英文誌『日本考古学』と邦文誌『考古略説』を著し、父シーボルトのアイヌ先住民族説を補稿した。この著書は日本考古学の概説ともいうべきもので、日本における考古学研究の必要性を説いている。明治11年という年は、ジョン・ミルンが初めて函館と小樽の石器時代遺跡を調査し、また人類学、先史学の先駆者エドワード・シュベスター・モースが貝塚の採集をかねて函館、小樽、札幌、白老などの貝塚やアイヌ集落を調べた年でもある。

ジョン・ミルン   P144−146

 ジョン・ミルンは、1850年12月30日イギリスのリバプールで生まれ、コリジェート・カレッジ、キングス・カレッジなどで地質学を学び、明治8年に日本政府工部省の顧問として招かれた。明治9年から同28年に帰国するまで、地震の研究を行い成果を挙げたが、日本における有史以前についての関心は、彼が横浜で大地震に遭遇して地震学に傾倒する数年前、九州地方を旅行した時に始まる。
 彼は明治10年に渡島の火山を調査しているが、翌年には貝塚などの遺跡を発掘し、8月に開拓使委員や通弁官らと玄武丸に乗船して、千島のシュムシュ島に至り、千島アイヌを調査している。九州旅行中に貝塚から土器を発見し、北海道にも同種の土器が出土することから、日本国中に石器時代の遺跡が存在することを確認し、これを基にアイヌ民族と日本民族との関係を調査するための千島行でもあった。
 明治12年11月11日、ミルンは「小樽、函館の石器時代遺物及日本有史以前遺跡についての所見」と題した報告書をアジア協会の英文雑誌に発表している。この報告書は30ページにわたるもので、小樽、函館の有史以前遺跡と日本の有史以前遺跡に関する一般的な見解が述べられている。また、これには図や写真が掲載されていて、その中に小樽の銘刻(古代文学)のスケッチおよび函館、小樽の石器や土器の写真などが載せられており、特に函館で貝塚を発掘できたことを非常に喜んでいる。発掘した場所は函館公園や道路開削のため切崩された箇所であるが、発掘された遺物は石鏃、石槍、石小刀、石斧、曲玉(まがたま)、管玉(くだたま)、土器、その他に分類し、寸法、石質などについて考察を加えており、殊に石器については詳しく、現今の報告書の要領と変わらないほどよく記述している。曲玉と管玉は現在市立函館博物館に所蔵されているが、これはアイヌの人たちが造ったものではなく、日本本土から移入したものだと言っている。更に彼は函館と小樽の遺跡や遺物を比較して、函館の石器時代は小樽のそれよりも古く、先住民族が函館から北の小樽に移動し、その後にアイヌ民族が来たと考え、日本全般については南の九州から北の蝦夷(北海道)に至る貝塚、古墳、洞窟、竪穴住居について述べ、アイヌ民族が南から北に足跡を残したものであろうと述べている。

ジョン・ミルンの報告書″函館の土器・石器″
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