通説編第1巻 第1編 風土と自然


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第2章 地形・地質
第2節 函館市の地形
函館平野の形成

3大別地形/山岳地

段丘地形

平野

平野形成経過

平野形成の経過   P35−P37

 亀田平野あるいは大野平野の名で呼ばれることもある函館平野は、沖積世に形成された。三谷勝利ら(1966)によると、函館平野の基底は平野南部で海面下40メートル前後、南東部から中央部にかけては同じく20メートル前後、西部で同じく10メートル前後、北部で同じくゼロから10メートル前後の所にあると推定されている。
 小原常弘ら(1966)によると、沖積層の基底が函館平野海岸地帯東縁で海面下8〜10メートル、西に寄るほど深くなり最大海面下40メートルに達する。平野部では柱状図や電気検層図から推定すると、基底面の深さは海岸から2キロメートル付近で海面下20〜30メートル、5〜6キロメートルで同じく10〜15メートル、平野北部では同じくゼロから10メートル前後と考えられる。
 以上を総合すると、函館平野基底の最深部は南部の海岸地帯にあり、海面下40メートル前後で、北方に次第に浅くなり、平野北部で同じくゼロから10メートル前後となる。つまり沖積層形成以前の現函館平野は海面下にあったわけで、本章においては日吉町段丘の項で述べたようにこれを古函館湾と呼ぶこととする。
 日本の最終氷期以後の時代は塚田松雄(1967)によると、花粉分析によりL(晩氷期)、RT(後氷期漸暖期)、RU(後氷期温暖期)、RVQ(後氷期減暖期)、RVb(後氷期有史時代)に分けられている。
 函館平野北端の国鉄仁山駅北にある熊の湯付近の泥炭層を分析した中村純(1960・65)によると、この付近の泥炭層は、下部の針葉樹時代と上部の広葉樹時代に分けられ、針葉樹時代は下部から上部にEG(ウルム氷期前期)、FG(ウルム氷期最盛期、LG(晩氷期)、RI(針広混交時代)となり、広葉樹時代はRUの温暖期となる。以上の塚田と中村の分類はほぼ同一とみることができる。従って函館平野はこのような寒冷期から温暖期への移り変わりを経験しており、この間縄文海進とその後の海退により沖積段丘が形成された。砂丘の形成に伴い古函館湾は潟湖となり、この潟湖は海退と各河川によって運ばれた礫、砂、粘土等により埋められて縮少され、次第に函館平野が形成されていった。函館平野前面の海岸砂州は3列あり、東方に発散する傾向がみられる。これを陸側から海に向って第1、第2、第3砂丘と呼ぶこととする。自然的、人工的作用により、これらの砂丘は変形されているが、第3砂丘が最も高く、内陸の砂丘ほど低くなっている。
 第1砂丘は東ほど高度を増し、かつ幅も増す。第2砂丘は標高5メートルの平均した高度を示し、幅は150〜200メートルである。第3砂丘は3つの砂丘の中で最も幅が狭く、100〜150メートルであるが高度は最高8.7メートルを示す。これら砂丘の形成された時代について山田悟郎(1970)は、第1砂丘の腐植土層と砂層の間からは縄文文化晩期初葉の遺跡が見出され、また第2砂丘からは土師(はじ)器と須恵(すえ)器が出土し、擦(さつ)文文化初葉から中葉に位置付けられて、平安時代〜鎌倉時代初葉とみられ、第3砂丘からは江戸時代末期の陶器・磁器が見出された事実から、第1砂丘の成立年代は縄文文化晩期以前、第2砂丘は擦文文化初葉〜中葉以前、第3砂丘は江戸時代末期以前に形成したものと推定している。
 函館平野南部で東西に測点を取った電気探査の結果(木村喬頼ら 1964)によると、現在の久根別川の東側において沖積層基底面が低くなり、古久根別川の流路であったことを示している。また函館平野の泥炭層は大野川流域に薄く、久根別川流域で厚く、平野東部では厚さ4メートルを越すところもある。函館平野の現在の高度変化も西側に高く東側に低く、ここを現久根別川が流れている。
 以上の事実から沖積世に入って、あるいはそれ以前から函館平野は西高東低の地盤運動の影響を受けており、この運動の軸は平野東側にあったと思われる。この時代に北西から南東に延びる沖積扇状地が形成され、大野町本郷や文月に扇頂をもつ扇状地が形成された。その後この地盤運動は東高西低に変わり、その軸は大野町本郷付近に移った。これは次のような事実から推定できる。
 函館平野東側に地盤運動の軸があった当時は、古大野川は東流して古久根別川に合流していた。しかし平野西側に地盤運動の軸が移ると、大野川は西方に流路を変えて平野の西端を流れるようになり、文月川や戸切地川の造った沖積扇状地をも浸食するようになった。明治38、9年から昭和35年までの55年間の水準点変化を見ると、函館平野北部では大野町本町を中心とした造盆地運動が行われている。すなわち、大野町本町自体は沈降しているが、これより東に進んでも西に進んでもいずれも隆起しており、しかも大野町本町を離れるに従って隆起量を増している。また大野町本町の真北に当る峠下の水準点変化においても、明治38、9年から昭和55年までの間では沈降が見られ、峠下と大野町本町の南方延長上にある上磯町久根別にある水準点変化も、同期間内では沈降している。また久根別から東と西に離れるに従って隆起量を増すことは、大野町本町の場合と同様である。しかも大野町本町と久根別を比較すると前者の沈降量の方が大きい。すなわち、峠下〜大野町本町〜久根別を結ぶ南北の沈降線があり、しかも大野町本町が最も沈降量が大きいことは、ここを中心とした造盆地運動が行われていたことを示している。
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