通説編第1巻 第1編 風土と自然


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第2章 地形・地質
第2節 函館市の地形

3大別地形/山岳地

段丘地形

平野

平野形成の経過

段丘地形   P18−P31

  函館付近に段丘地形がよく発達していることは古くから知られているが、これらはその成因によって海岸段丘と河岸段丘に分けられる。
 海岸段丘はいうまでもなく、過去の海面に関して波食作用を受けて平坦化した面を主体としており、その上に堆積物を比較的厚く乗せる場合、ほとんど乗せない場合、比較的薄く乗せる場合とがある。このような段丘面は数段見出されることが多く、洪(こう)積世氷河時代における間氷期に形成されたものと考えられている。そして高位の段丘ほど古く、かつ開析(せき)が進んでおり、低位の段丘ほど新しく、かつ開析が遅れている。かつてはこのような段丘の形成は土地の間欠的隆起によるものと考えられ、次いで海盆の拡大と間氷期における海面の上昇のためと考えられ、最近では地殻(かく)が一定の速度で上昇している間に行われた海面変化の結果であるといわれるようになった。
 河岸段丘は川の両岸あるいは片側に、川の浸食が復活したために旧河床が刻まれて階段状に残った地形で、海岸段丘と同様、高い段丘ほど古く、かつ開析が進んでいる。

第2図 函館付近平坦面分布図

鱒(ます)川面について

 函館市内の平坦面の中で、最も高いものは標高200メートル前後の平坦面で、松倉川上流左岸に細長く稜(りょう)線を形成しており、かなり開析が進んでいる。この平坦面は1つの面ではなく、幾つかの平坦面に細分される可能性もあるが、一応1つの平坦面として分類し、付近の地名を取って鱒川面と呼ぶことにする。
 鱒川面の堆積物を馬込牧場付近で見ると、基盤の凝灰岩(汐泊川層)の上に基盤岩に由来した凝灰岩や泥岩の角礫が乗り、更にその上に石英粗面岩角礫や褐色ローム層が乗る。基盤岩と異なった岩種の角礫が基盤岩の上に乗ることは、寒冷気侯の一時期に移動してきたものと思われる。その時期は、次に述べる赤川段丘をミンデル・リス間氷期、日吉町段丘をリス・ウルム間氷期と仮定するならば、ミンデル氷期と推定することができるであろう。
 鱒川面の下位にある赤川段丘は中川(1961)によると、東北地方北部における大平段丘や白前段丘に対比されており、中川の対比に従うと、鱒川面は同地方の最高位段丘である九戸段丘に対比されることになる。九戸段丘は東北地方第4紀研究グループ(1969)によるとPediplainに似た性格を持つもののようで、原初起伏も考えられると述べられている。Pediplainと言うのはペディメントの表面の平坦な浸食面である。ペディメントというのは、普通内陸盆地に見られる、基盤を切った緩斜面で、側方浸食によるとするもの、布状浸食によるとするもの、表層風化のさまざまな組合せによるとするもの等、成因については意見が分れており、乾燥地域での普遍的な地形であるか否か、すなわち、湿潤気候にも存在し得るか否かについても議論が分れている。小林国夫(1965)によると、九戸段丘は浸食面群より成るといわれている。
 いずれにしても、鱒川面は低海水準の一時期に、寒冷気候下に形成された浸食面と考えてよいものと思われる。

赤川段丘(鈴蘭(らん)丘面と中野町面)について

 鱒川面の下方に位置して鈴蘭丘面がある。鈴蘭丘面は、かつて次に述べる中野町面と共に赤川段丘の名で呼ばれていたが、本章では一括して呼ぶ場合は赤川段丘の名で呼び、細分する場合は鈴蘭丘面・中野町面の名で呼ぶこととする。
 鈴蘭丘面は比較的広い範囲にまたがっており、多くの川によって開析された狭い平坦面の集合から成り、傾斜も、より下位の平坦面より急で、多輪廻(りんね)的性格を持つもので、更に細分される可能性もある。
 函館市北方約110キロメートルの長万部町付近には、高度200メートル前後の三ノ岱(たい)面、高度120メートル前後の二ノ岱面があり、その他、長万部段丘(高度60〜40メートル)、飯生神社段丘(高度20〜10メートル)、長万部温泉段丘(高度5メートル前後)の各平坦面がある(瀬川 1973)。このうち三ノ岱面と二ノ岱面は浸食面と考えられ、鱒川面や鈴蘭丘面に対比できる。
 小林国夫(1965)によると、地質時代の第4紀は著しい隆起あるいは海退の時代であったというが、そのような隆起時代に形成されたのが鱒川面・鈴蘭丘面であったものと思われる。
 鈴蘭丘面は北西から南東に高度を減ずる傾向があり、亀田川左岸では170メートル、汐泊川左岸では100メートル前後の高度を示している。このことは鈴蘭丘面が形成された後、著しい地盤運動があったことを示している。この運動は平坦面そのものにも影響を与えており、鈴蘭丘面の高度の高い所では平坦面傾斜が急であり、高度の低い所では平坦面傾斜が緩やかになる傾向が見出される。
 鈴蘭丘面の堆積物は、松倉川より西では一般に北西に厚く、南東に薄い傾向が見出される。
 松倉川と汐泊川間の鈴蘭丘面堆積物は、汐泊川層の上に下部から亀尾砂層・段丘礫層・褐鉄鉱と砂層のやや傾斜した互層が順次乗り、更にその上にはローム層・表土が乗っている。
 亀尾砂層を東方及び南方へ追跡すると、いずれも泥炭層に変化しており、少なくともこの地層は潟(せき)湖あるいは湿地のような所で堆積が行われたものと思われる。同様な泥炭層は旭岡北方でも鈴蘭丘面堆積物として見出され、この付近は一般にこのような環境下にあったことを示している。また鈴蘭丘面内縁の傾斜変換線付近の堆積物は、基盤岩の上に基盤岩の風化物を薄く乗せており、浸食面的な性格を示している。
 中野町面は平坦面の内縁高度90〜100メートルを示すもので、鈴蘭丘面の下部に明瞭(りょう)な段丘崖を持って存在する。しかし日吉町背後や滝沢町背後のように、鈴蘭丘面との境界があまり明瞭でない所もある。中野町面は北西から南東方向の分布型を示すが、松倉川と汐泊川間では急に南方に張り出した形を示しており、面積も広くなる。
 函館山の立待岬西方に100メートル前後の平坦面がある。ここでは基盤岩のみ存在し、段丘堆積物は見出されないが、中野町面に対比されるものと思われる。
 中野町面は鈴蘭丘面に比べてはるかに面積は狭い。また後者の高度が北西から南東に次第に低下する傾向を示すのに対し、前者はほぼ一様の高度変化を示しており、比較的変化が少なく、段丘形成後の地盤運動が小さかったものと思われる。
 中野町面堆積物は松倉川以西の場合では、汐泊川層(第3紀中新世)を切って段丘堆積物が約3メートル程乗っている。段丘礫の大部分は基盤岩より供給されたものであるが、上部に安山岩が円礫として見出されることは、堆積の末期に北方からおそらく河川によって運搬されてきたことを示すものと思われる。
 松倉川左岸の中野町面堆積物は、基盤岩の石英粗面岩あるいはその風化物を切って礫層・凝灰質砂層・褐(かっ)鉄鉱混じりの褐色砂層・ローム層等が乗る。段丘堆積物は基盤岩より由来した石英粗面岩や安山岩・玄武岩から成る。堆積物はあまり厚くない。同形度が高い点からみると、これら段丘堆積物中の礫は海岸堆積物とみられる。
 汐泊川河口近くの中野町面堆積物は、汐泊川層を切って分級度の極めて良い砂礫層が乗っており、その上にシルト・粘土・いわゆる銭亀沢火山灰等が乗っており、礫→シルト→粘土の順序の堆積相は海進の過程において堆積したものであることを示している。
 鈴蘭丘面と中野町面は、高度から考えると、関東地方の多摩丘陵に相当しており、多摩丘陵が120〜200メートルの高度をもつT1面と、70〜100メートルの高度のT2面に分けられることとも一致している。
 菊地隆男(1971)によると、多摩丘陵はT1面が御殿峠礫層、T2面がおし沼砂礫層から成り、おし沼砂礫層は横浜南方の屏風(びょうぶ)が浦層と呼ばれる海成層の最上部に相当している。従ってT1面は御殿峠礫層という扇状地礫層の堆積面であり、T2面は海成層が造った平坦面ということになる。
 小林国夫(1965)によると、長沼−屏風が浦層はミンデル・リス間氷期に形成され、地中海の主モナストリアンあるいはチレニア段丘に対比されている。しかし、湊 江尻(1966)によると、長沼層はギュンツ・ミンデル間氷期でミラチア海進によるものであり、屏風が浦層はミンデル氷期と考えられており、意見の一致をみない。ミンデル・リス間氷期やギュンツ・ミンデル間氷期というのは、ヨーロッパ、特にアルプスを中心とした第4紀の分類であり、次のように考えられている。すなわち、A・ペンクとブルックナームにより、第4紀は古い方からギュンツ、ミンデル、リス、ウルムの4氷期とそれらの間の間氷期、ギュンツ・ミンデル間氷期、ミンデル・リス間氷期、リス・ウルム間氷期に分けられた。しかし、その後ギュンツ氷期よりも古い氷河時代のあることが分り、これをギュンツ氷期に近い方をドナウ氷期、より遠い(古い)方をビーバー氷期と呼んでいる。

日吉町段丘について

 中野町面の下部に日吉町・花園町・高丘町・高松町・瀬戸川町・函館空港等の乗る日吉町段丘がある。この段丘の旧汀(てい)線高度は普通50〜60メートルであり、いわゆる下海岸の中野町付近では標高70メートルを示す所もみられる。また函館山の立待岬には旧汀線高度40メートル前後の平坦面があり、これも日吉町段丘に対比されるが、一般的には平均した高度を示しており、中野町面と同様、日吉町段丘形成後の地盤運動が小さかったことを示している。
 日吉町段丘堆積物は松倉川の東と西では非常に異なっている。松倉川の西では汐泊川層を切って礫層・砂層・シルト層・粘土層・ローム層が乗るのが一般的である。松倉川支流では上流で段丘堆積物が1メートル前後、下流で2メートル余となり、下流部にやや層厚を増す傾向がみられる。これに対し松倉川本流沿いでは下流部から上流部に段丘堆積物の層厚を増す傾向があり、下流の戸倉町付近で2〜3メートル、これより約1.6キロメートル上流の上湯川対岸では4メートル余となっている。高丘町、上野町の日吉町段丘堆積物は、西から東に厚くなる傾向がうかがわれる。
 以上の事実は、基盤岩高度が起伏に富んでいるためと思われる。
 松倉川支流の日吉町段丘堆積物は、基盤岩に由来した凝灰岩や泥(でい)岩が多く、そのほか上流部に安山岩、下流部に石英粗面岩が存在する。前者の安山岩は三森山溶岩より由来したものと思われ、後者の石英粗面岩はトラピスチヌ修道院付近の石英粗面岩が、松倉川本流によって下流に運ばれ、その後沿岸潮流により運搬されて堆積したものと思われる。
 松倉川本流西岸の日吉町段丘堆積物は、基盤岩の汐泊川層より由来したと思われる凝灰岩や泥岩が非常に多く、その他安山岩礫も見出される。
 桔梗(ききょう)付近の29.1メートル三角点が乗る平坦面は日吉町段丘に相当するもので、その東方では新火山性扇状地堆積物が、日吉町段丘の形成後にその上に堆積したために傾斜が急になっている。この平坦面の堆積物は、基盤岩との関係が明らかでないため全体の層厚は不明であるが、国鉄五稜郭操車場北方の露頭においては10メートル以上に達する。ここでは基盤岩は沖積層下に潜っているのに対し、松倉川河口付近の日吉町段丘では基盤岩高度は21メートル前後となっている。このことから日吉町段丘堆積物の基盤岩高度が起伏に富んでいるものと推定される。
 五稜郭操車場付近は、かつては古函館湾(後述)の一部を成しており、この付近の日吉町段丘堆積物は、溺(おぼ)れ谷堆積物として形成されたものと考えられる。すなわち、その下部堆積物が礫から砂へと変化したのは、この堆積物が1ないし2回の海進の過程において堆積したことを示している。これらの海進は原地形をそのまま被覆して堆積したものであるから、比較的急速な海面上昇下に行われたものと思われる。一方においては、砂層の上部には生痕(こん)と思われるサンドパイプ(砂管)が存在し、不完全な貝化石もあり、一時的な海水面の停滞期があったことをも表わしている。上部堆積物である礫層の示す海退期は、松倉川河口の場合と同様に、波食面を形成しながら堆積した時期であり、下部地層や基盤岩(松倉川河口の場合)を変形しながらゆっくりした海面上昇が行われたと考えられる。このことは坂本享(1972)の報告した、茨城県大洗地域の第4系の堆積状況と同一とみられる。しかし、大洗地域における見和層中部によって示されるような、何回かの海面変動を含んだ小海退期はこの地域では明らかでなく、海退期は1度ではなかったかと思われる。
 函館山山麓の立待岬の日吉町段丘堆積物も比較的粗いものが多く、海岸付近での堆積物であることを示している。基盤岩高度も20メートル前後で、松倉川河口付近と類似した値を示している。
 松倉川の東の日吉町段丘は、いわゆる銭亀沢火山灰層を厚く乗せており、基盤岩や段丘礫層との関係を明らかにする露頭が少ない。ただ、函館市東方の、いわゆる下海岸の瀬戸川流域においては、汐泊川層を切って段丘礫層が乗り、更にその上には″銭亀沢火山灰層″が乗るので、銭亀沢火山灰層の堆積したのは日吉町段丘形成後であることを明らかにしている。段丘堆積物は、瀬戸川流域では泥岩・安山岩・石英粗面岩等の円礫より成り、汐泊川流域の場合にはチャート・砂岩・泥岩・安山岩の礫から成り立っている。
 日吉町段丘は渡島半島においては、恵山(えさん)付近の古武井(こぶい)段丘(標高60メートル)、長万部町付近の長万部段丘(標高60〜40メートル)、松前半島の三ッ石段丘(標高40メートル)、檜山西海岸の熊石付近の第一段丘(標高40〜30メートル)に対比され、関東地方の下末吉段丘(標高40〜20メートル)にも対比される。
 下末吉段丘は関東地方にあって研究が進んでおり、小林国夫(1965)によると、下末吉段丘およびその堆積物であると認めるための基準として、次のような条件を挙げている。

(1)海食崖においては下末吉段丘は20〜40メートルの高度をもつ。段丘面の一般的な傾斜は他の段丘よりも急である。
(2)若い谷が段丘面を開析しているけれども、一次的な堆積物が、なお相当開析されずに残されている。
(3)堆積物の厚さは50メートルよりも薄く、堆積物が、より高い波食台を覆う時には10メートル程度のこともある。
(4)穿孔貝による多くの穴が基盤岩の波食台上に、しばしば見出される。
(5)下末吉面形成に関係した堆積物が、浅海水あるいは、しばしば汽水(海水と淡水の混合による低塩分の水)の貝層を不整合に覆っており、また、生痕による無数の砂管を埋めている。
(6)堆積物の最上部には、しばしば酸化鉄によって汚染された砂や礫が発達している。
(7)陸地や海岸の堆積物からはナウマン象の化石が多くの場所から発見された。
(8)下末吉層から発見された化石から判断すれば、上部および下部は寒冷気候であり、中央部は温暖であったと思われる。多くの証拠は、下末吉時代の気候が現在よりも少し暖かかったことを示している。

 また、下末吉時代以来海水準が現在の海水準よりはるかに高かったということを決定する証拠がないので、下末吉時代は最後の間氷期に対比され、地中海沿岸ではモナストリアンU(エーメアン)の段丘に対比されている。
 しかし、湊 井尻(1966)によると、前述したように下末吉段丘をミンデル・リス間氷期(ホルスタイン暖期)、すなわちチレニア海進によるものと考えており、下末吉段丘の時代については意見の一致をみていない。
 下末吉段丘と日吉町段丘を比較すると、高度は後者がやや高い傾向がみられ、堆積物はやや前者が厚いようである。小林国夫(1962)によると、下末吉段丘では、その堆積物である下末吉層の厚さが基盤の高さと逆相関の関係にあり、その分布の広さに比べて著しく薄い地層で、いわば薄層(ベニア)といってよいほどの印象を与えているといわれる。このことは日吉町段丘においても同様である。松倉川支流の上野町付近の日吉町段丘堆積物中には、礫の中に穿(せん)孔貝のあとを残すものが見出される。この段丘礫は基盤の汐泊川層に由来しているので、汐泊川層上部にはかつて穿孔貝が生存していたことを示している。すなわち、上野町付近の日吉町段丘は、下末吉段丘と同様波食台上に形成されたものと考えられる。しかし一方において、国鉄五稜郭操車場北方の日吉町段丘においては、前述したように基盤岩は沖(ちゅう)積層下に潜り、その堆積物は、下部は数度の海進・海退の過程において堆積したものであり、最上部は波食台上の堆積物で、上野町のそれと対比されるので、日吉町段丘の基盤岩は起伏に富んでいたものと思われる。この点も下末吉段丘と日吉町段丘は類似していると思われる。
 下末吉段丘の時代は前述のようにまだ決定されておらないが、日吉町段丘の時代については幾つかの資料が報告されている。すなわち、戸井町の日吉町段丘堆積物上部の粘土層中の木片の14C年代測定値(カーボン・デイタム)は、学習院大学木越研究室の測定によると、33,600 +3,700/-1,600 B.P.とされている。
 14C年代測定法とはアメリカ合衆国のW.F.Libbyによって始められた方法である。これは生物遺体中の放射性炭素は放射線を放出することによって、次第にその質量を減じていくが、丁度半分になるまで(半減期)に、約5,680年かかる。このことを利用して生物の遺体などを包含している地層の絶対年代を測定する方法であり、普通は1950年を基準にして何年前であるかをB.P.で表わしている。
 噴火湾沿岸の長万部町において、日吉町段丘に対比される長万部段丘の礫層上部の泥炭層中にあった木片の14C年代は、同じく木越研究室により24,350 +1550/-1,350 年B.P.とされている。
 また檜山郡熊石町付近の第2段丘も前述したように日吉町段丘に対比されるものであるが、西浜付近では基盤岩の上に約4メートルの砂礫層が乗っていて、この砂礫層中に木片が包含されており、木片の属する時代は段丘礫層の堆積時代そのものを表わしていると思われるが、その14C年代は木越研究室の測定により27,500 +2,000/-1,500 年B.P.とされている。
 これら14C年代との関係において日吉町段丘の時代を考えると、ゲトワイゲル間氷期もしくは、リス・ウルム間氷期あたりに対比されるのではないかと思われる。

函館段丘について

 日吉町段丘の下部に、函館市街地高台から成る函館段丘がある。函館段丘の高度は、本町・杉並町の三角点や水準点によると、17、8メートルである。函館段丘の前面の段丘崖は、駒場町から湯川町に下る坂、柏木町から川原町に下る坂、梁川町から宮前町に下る坂、千代台町から新川町に下る坂、人見町から金掘町に下る坂等で表わされている。
 国鉄五稜郭操車場の北に29.1メートル三角点を乗せる日吉町段丘堆積物を切って、標高15メートル余の段丘がある。これは函館段丘に対比されるもので、日吉町段丘堆積物を切って、極めて薄く、1.5センチメートル大以下の礫や砂より成る層が、ベニア的に乗っており、浸食段丘であることを示している。
 長谷川 鈴木(1969)によると、函館市の市街地になっている平坦面は砂と泥から成り、この段丘上から縄文早期の土器が発見されているので、この段丘は少なくとも6,000年以前に形成されたものであるとし、沖積段丘と考えている。しかし、この段丘をただちに沖積段丘と考えるよりは、洪積段丘と考える方が妥当のように思われる。

住吉町段丘について

 函館段丘の下部には、縄文海進に伴う沖積段丘(標高5メートル前後)が存在する所もある。これを住吉町段丘と呼ぶこととする。この堆積物は住吉町付近の例によると、下部から上部に偽層を示し、1メートルの層厚を示す砂層、砂鉄を包含し、極めてよく成層した層厚1.5メートルの砂層から成り立っている。最上部の砂層高度は現海面上4.5メートルあるので、4.5メートルより若干高い高度が当時の海水面であったと推定される。
 函館本線桔梗駅の南西にあたり、函館市と上磯町の境界付近には10〜6メートルの平坦面があり、畑地として利用され、6メートル以下の所が水田として利用されていることと明瞭な土地利用の違いを見せている。この10〜6メートル平坦面からは縄文早期の遺物が発見されており、高度的にはやや高いが、この平坦面も住吉町段丘に対比される可能性がある。

亀田川西側の扇状地群について

 亀田川の東側には鈴蘭丘面、中野町面、日吉町段丘、函館段丘、住吉町段丘が分布するのに対し、亀田川の西側にはこれらの段丘に対比される扇状地や段丘が存在する。
 鈴蘭丘面と中野町面に相当するものには古火山性扇状地があり、日吉町段丘に対比される段丘の上には新火山性扇状地が乗っている。
 蒜沢(にんにくざわ)川左岸の173.4メートル三角点の乗る緩斜面、その東にある131.7メートル三角点の乗る緩斜面、また、亀田川右岸の180〜160メートルに傾斜変換線を有する緩斜面は、いずれも古火山性扇状地に相当し、これらを切って七飯、大中山、大川、桔梗、赤川等の新火山性扇状地が分布している。これら新火山性扇状地は、西桔梗遺跡が見出された29.1メートル三角点が乗る平坦面や、桔梗駅の西にあって25.8メートル三角点が乗る平坦面で示されるような日吉町段丘の上に乗り、やや傾斜した面をなしている。新火山性扇状地は日吉町段丘を覆っているので、時代的にはやや後となるが大差のない時代に形成されたと思われる。すなわち、新火山性扇状地が直接沖積地に接している所においても小崖が見出されるところから、新火山性扇状地は洪積世に形成されたものと思われる。 このように、ほぼ亀田川を境にして東西で異なった地形をなしているのは、中の沢に見られるように、段丘礫層をはさんで下部に軽石流、上部に岩屑(せつ)流が乗る(大矢 中村 1969)ことと、南東から北西に高度を増して行った増傾斜運動の影響とが考えられる。
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