通説編第1巻 第1編 風土と自然


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第2章 地形・地質
第1節 序説

函館市の位置

第2節 函館市の地形

3大別地形/山岳地

段丘地形

平野

平野形成の経過

第1節 序説

函館市の位置   P13

 魚の″えい″にその形が似ているといわれるように、特異な形をしている北海道は、北海道本島と南西部の渡島半島とに分れている。渡島半島は更に南部で亀田半島と松前半島とに分れており、その分岐点にあって津軽海峡に面した位置を占めるのが函館市である。

第2節 函館市の地形

3大別地形   P13

 函館市の地形は、大きく (1)山岳地 (2)段丘地形 (3)平野部 に3分することができる。

山岳地   P13−P18

 山岳地は、函館市の北東部を占め、横津岳(1166.9メートル)や袴腰(はかまごし)岳(1108.3メートル)と連続して亀田半島の背梁を成す北東山岳地と、函館山とに分けられる。
 北東山岳地のうち、横津岳や袴腰岳に続いて尾根を成している部分は、比較的なだらかな地形を示している。それは、これらの地域が横津岳上部溶岩および下部溶岩(輝石安山岩)より成り、地形上からは溶岩台地を成しているためである。
 函館市域内にある山地としては、雁皮(がんぴ)山(743.4メートル)や三森山(842メートル)等があり、雁皮山は雁皮山溶岩、三森山は三森山熔岩より成り、いずれも輝石安山岩より成っている。雁皮山は硫黄鉱床の生成のために珪(けい)化作用を受け、白色の珪化岩となっているが、比較的なだらかな山形を示しているのに対し、三森山はその名の示すように3つの峰から成り、特異な形を成している。
 横津岳の南麓には独立峰として庄司山(障子山)がそびえ、三周は急峻(しゅん)な崖(がけ)で囲まれ、狭い尾根を持った特異な山形を示している。庄司山は全体が珪化岩から成るが、これは硫黄(いおう)鉱床の生成に関係する変質によるものであり、前述の雁皮山付近と同一と考えられている。
 これら山地を切って松倉(まつくら)川や汐泊(しおどまり)川の本・支流が流れるが、上流部は深く切り立った谷を刻み、各所に滝を造り、幼年期の地形を成している。岩石の硬軟が地形に影響を及ぼしており、汐泊川層等の新第3紀層の分布している所は、山も谷も緩やかな地形を成すのに対し、粗粒玄武岩より成る所は、切り立った峰や滝を造り、際だった対照を示している。例えば汐泊川支流の冷水川上流部にある台場山(428メートル)、同じく汐泊川支流の糸川上流の毛無(けなし)山(630メートル)、汐泊川支流盤沢奥地の三枚岳(585.8メートル)は、いずれも粗粒玄武岩より成り、比較的急峻な山岳地となっているのに対し、付近の第3紀層より成る所は比較的緩やかな傾斜地を成している。
 汐泊川上流部には粘板岩や砂岩より成る戸井層が分布し、先第3紀層(長谷川 鈴木 1964)、あるいは古生層(鈴木 長谷川 1963)と呼ばれてきた。しかし、古生層とした場合にもいまだ化石が発見されないため、古生代のどの時代のものかは明らかでないといわれていた。しかるに最近、吉田 青木(1972)により、戸井層中の石灰岩から三畳紀コノドントが見出され、この地層が中生代三畳紀に属することが明らかとなった。
 戸井層の分布する地域も山岳地を成すが、高度は一般的に低く、最高地の木無山でも415メートルを示すに過ぎない。尾根は一般に緩やかな起伏を示すのに対し、谷は切り立ったV字型を示すのは、岩山の性質の影響と考えられる。
 陸繋(りくけい)島を成す函館山は、北部では御殿山(333.8メートル)を主峰とする幾つかの山地が集まっており、南部は千畳敷といわれる熔岩台地で、高度250〜300メートルを示す。山容が牛が寝そべっているように見えるところから臥牛山ともいわれる。
 函館山の最高点御殿山は、万延元(1860)年の幕府測量図では薬師山となっている。御殿山山頂は右に記した三角点高度333.8メートルより、若干高い。この山は御殿山溶岩より成り、円錐(すい)状の山形を成すが、古絵図や古い写真によると、かつては現在よりももっと尖った山頂を成していたようである。しかるに戦時中の要塞(さい)時代に山頂部が削り取られたといわれ、また第2次世界大戦後、テレビ塔が建設された際にも変形されて現在のような形となっている。
 御殿山の西隣にある高龍寺山(264メートル)は万延元年の幕府測量図や明治16年の函館港実測図によると愛宕(あたご)山となっている。高龍寺溶岩より成り、御殿山溶岩より幾分古いが、同じく鮮新世に噴出したと考えられている。深い谷に刻まれ、けわしい山峰を成している。
 千畳敷はその名の示す通りになだらかな緩斜面を成しており、かつてはスキー場として利用されたこともあり、広範囲に千畳敷溶岩面が広がっている。千畳敷の海岸部は切り立ったような急斜面を成しているが、これは、この付近の地質が下部の海岸付近では千畳敷集塊岩層が分布し、その上に、これより後に噴出した千畳敷溶岩が乗っており、集塊岩層が風化や海食作用に弱いためにこのような地形になったものであり、一部には風食地形も見出される。
 函館山の北部と南部は鞍部でつながっているが、ここには、かつては高龍寺山溶岩や千畳敷集塊岩層が堆(たい)積しており、これらを切る東西方向の2本の断層が生じたことにより、浸食が進み、これら上部の溶岩や集塊岩層は削り去られ、下部の寒川火山噴出物層が顔を出し、同時に鞍(あん)部を成すに至ったものと考えられる。
 函館山の西から南の海岸線はすべて切り立った断崖(がい)絶壁を成しているが、これは、この地域が寒川火山噴出物層、立待岬溶岩、千畳敷溶岩等の火山噴出物より成り、これに海食作用が働いたためと考えられる。西海岸には穴澗(ま)と称される海食洞があるが、これは石英安山岩の柱状節理に沿って波食作用が働き、海食洞を造ったもので、節理に沿って浸食が進んでいるため、屈曲した形をしている。これに似た海食洞地形としては、神奈川県江の島のものが有名である。
 これに対し函館山の東部は海岸段丘や崖錐(がいすい)等より成り、西部や南部寄りは緩い傾斜を成している。南東の谷地頭は、谷地の字の示すように、かつては湿地であり、谷地まなこと称した沼地を成していた。谷地頭はその形が爆裂火口に似ており、ボーリング資料から得られた地下の構造も、すりばち型の岩盤地形を成しているといわれる。地表から60ないし90メートルで岩盤に達しているようである。ここは比較的新しい時代に生じたかつての爆裂火口であり、これに砂・礫(れき)・粘土等の第4紀堆積物が堆積したが、完全に埋め尽す所までは行かず、かつての形を残しているものと推定される。
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